Jul 29, 2010
医師求人したがって、どのくらい集まる
ここ数年の医師不足を聞いていますが、医師の採用だとどのくらい集まるのだろうか。あまり縁のない世界の話なので、もう一度考えてみた。職業安定所の医師求人の枠があったのだろうか。何度も通ったことがあったが、医師の求人とは見たことがなかった。縁がなかったので目に留まらないないただのものだったのか。医師と同じフロアでの求人情報を見ていたのかもしれない。私は看護師としてそれなりの経験を重ねてきたが、出産を機に病院を辞めて数年間、看護師の仕事から離れていた。再び仕事を見つけるために、看護師求人を探していたが、ふと不安がよぎった。現場を離れていたこの私の雇用者は、病院があるだろうか。しかし、そんな時に"経験を重視する"と書かれている看護師求人を探して私はすぐに応募してみることにした。
集団避難を続けている福島県双葉町の町民が、さいたま市のさいたまスーパーアリーナから埼玉県加須市の旧県立高校に移転を始めた30日、町民はそれぞれ期待と不安が入り交じった表情を見せた。古里から遠く離れた場所での新生活。中には町ぐるみの移転に同行せず、新たなスタートを切った人もいた。【飼手勇介、神保圭作、町田結子】
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双葉町で養蜂業を営む小川貴永(たかひさ)さん(40)は、父の兼太郎さん(72)と2人で同校に移り住む。「アリーナにも加須市のボランティアの方がいて、大変よくしてくれた。ここで移るのも何かの縁。新しい人たちとの出会いが楽しみ」と期待を込める。
妻(31)と2歳と1歳の2人の子どもは、一足先に町を離れ、今は福島市の親戚の家にいる。合流する余裕はなかった。「これ以上、迷惑はかけられない」と、親戚宅には行けず、離ればなれの生活が続く。「蜂は放射能で使いものにならず廃業状態だ。家に戻る見通しも立たないし、加須にもいつまでいられるのだろうか」と不安も漏れた。
家族5人で避難生活を続ける小林哲夫さん(37)。旧県立高校は4カ所目の避難所だ。「情報が少なくどうなるのか先が見えないが、言われるがまま付いていくしかない」とため息が漏れる。福島第2原発で清掃関係の仕事をしていた。移転する理由は、6〜9歳の3人の子どもを友人と共に小学校に転入させたいからだという。
◇「違う一歩」歩む人も
一方、町を離れる決断をした人もいる。アリーナに小学5年の次男(11)と知人家族の計5人で避難していたパートの女性(53)は29日、5人全員で茨城県常総市の避難所に移った。避難者向けに就労相談が始まっており、仕事が決まれば民間アパートに移る予定だ。
「みんなで1カ所に移転しても仕事にありつけるかどうかわからない」と話す女性。「(原発事故で)双葉にはもう戻れない。どこかで切り替えないと。やっていけばなんとか1年くらいで立て直しがきくはず」と、違う一歩を歩み始めている。
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日本を代表する具象彫刻家の佐藤忠良(さとう・ちゅうりょう)さんが30日午前8時16分、老衰のため都内の自宅で死去した。98歳だった。宮城県出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男達郎(たつろう)氏。
東京美術学校(現東京芸大)卒業後、本郷新らと新制作派協会彫刻部を創立。1944年応召、戦後3年間シベリア抑留を体験し、創作の中断を余儀なくされた。帰国後、積極的に新作に取り組み、日本人の相貌を通してその人の内面の美しさを表した「群馬の人」など、簡潔で引き締まった造形美で独自の世界を確立。一連の作品により60年、高村光太郎賞を受賞した。
74年に「帽子・あぐら」で芸術選奨文部大臣賞、75年に「カンカン帽」で中原悌二郎賞などを受賞。81年に日本人として初めてパリの国立ロダン美術館で個展を開き、フランス芸術アカデミー客員会員に推挙されるなど、国際的にも評価された。
東京造形大の創立に関わり、同教授などを務めた。小中学校の図工・美術教科書の編さんにも携わるなど、後進の育成にも尽力した。
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戦後日本の具象彫刻を代表する一人で、清新な写実表現が広く親しまれた彫刻家、東京造形大名誉教授の佐藤忠良(さとう・ちゅうりょう)さんが30日午前8時16分、老衰のため亡くなった。
98歳だった。喪主は長男、達郎氏。
宮城県生まれ。父の死で故郷を離れ、少年時代を北海道で過ごした。上京後、美術雑誌で見たマイヨールらの作品に打たれて彫刻家を志し、東京美術学校(現・東京芸大)で朝倉文夫らに学んだ。1944年に補充兵として徴兵。3年間のシベリア抑留を体験した。
戦後も写実一筋に作風を深め、武骨な顔を表現した「群馬の人」(52年)などで評価を高めた。60年に高村光太郎賞。「帽子・夏」など帽子をかぶってうつむく女性像、子供の連作で洗練さを加え、具象彫刻の第一人者となった。
81年、日本人として初めてパリのロダン美術館で個展を開催。仏美術アカデミーの客員会員に推挙されるなど、国際的な評価も得た。ロングセラーの絵本「おおきなかぶ」をはじめ、児童書の挿絵も手がけた。
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